100年前の春、『アザリア』始動!
どうも、こんばんは!
実行委員会のFの方です。
準備と協賛金集めにバタバタジタバタしていたらもうGWが始まってしまいました。
ひええ…!
さて、今日は「アザリアとは!」第三弾です!
前回はどのようにメンバーが集まったのかをご紹介しました。
あれをざっくりまとめると、
賢治、保阪、小菅、河本を中心として……
① 学生寮の同室(賢治、保阪、伊藤彰造)(賢治、福永)
② 下宿・鎌田屋(保阪、河本、潮田、村上)
③ 学内雑誌編集委員(保阪、小菅、纐纈、鯉沼)
+同級生、同学年の友人(中島、伊藤忠次、市村)
というように声をかけていったということですね!
今回はちょうど100年前の今頃……春から初夏にかけて、どのように『アザリア』が生まれたのか、というおはなしです。
『アザリア』結成時、盛岡高等農林学校内にはいわゆる文芸サークルに当たるものはありませんでした。
小菅健吉さんも「当時、学内にこの他の文学グループはなかった。」と証言しています。
なので、『アザリア』の誕生はちょっとした事件だったといいます。
小菅さんは次のようにも述べています。
「今日と異なって学生数が少なかったため、相互に接触が多く、文学をやりそうな人も自然と分っていたので、幾人かを中心に何となく集った感じのグループである。」
前回見たように仲の良い者同士、個人と個人が結びつき、なんとなく集った文学青年たちの間で、
自然発生的に生まれた文芸サークル……それが『アザリア』の集いだったのでしょう。
その「何となく」の集いが、『アザリア』結成になった時の様子を、潮田豊さんが証言しています。
「大正六年の晩春 農場教室の南面、苗圃の一隅にアザリアが今を盛りと咲き誇つていた頃、材木町の北上河畔の鎌田屋の下宿で結成された事、賢治がこのグループの中核であつたという事は今でもはつきり記憶している。―略― ここはミーテイングの出来る部室もあり、格好の集り場所だつた。
最初の会合、之がアザリアの結成式になつたのであるが、誰の発起したかさだかでないが、河本や保阪、賢治等が話し合つて同好の者に知らせて催されたものと想像される。」
先ほどメンバー集めのルートをまとめましたが、
その「② 下宿・鎌田屋」が、『アザリア』青春の部屋だったようですね!
この時にはもう賢治は「中核」であったと言われています。
また、潮田さんは次のような証言も残しています。
「翌六年の春私は寮を出て友人達と北上河畔に下宿したが、その六月宮沢氏を中心として詩や短歌俳句等をたしなむ七名がこの下宿に会合して毎月一回例会を催すことや機関誌を出すこと等がきめられた。
それは丁度アゼリアの花盛りの節であったので会名も機関誌名もアゼリアと呼ぶ事になった。」
さあ、『アザリア』(アゼリア)が登場です!
説明不要かもしれませんが、「アザリア」は「アゼリア」「アザレア」とも呼ばれる西洋躑躅の花です。
ちょうど春から初夏にかけて咲く花で、盛岡高等農林学校の植物園は珍しい花も栽培していたため、この花が咲き誇っていたようです。
また、聖書に「アザリア」(アザルヤ)という名の殉教者のエピソード(「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」)もあったようで、それも意識していたんじゃないか、と言われています。
それにしても、可憐な花の名前を同人誌の題にする彼らも、なかなかかわいらしいですね♪
ところで、潮田さんいわく、結成式には「七名」が参加したようですが、この七名は誰なんでしょうか……。
と、疑問に思い、『アザリア』創刊号の参加者を数えてみました。
第一号 1917(大正6)年7月1日発行。小菅、福永、宮沢、鯉沼、保阪、河本、潮田(人物は掲載順)
おお!たしかに七名!
でも、この創刊号の批評会には「十名」(上記+纐纈、市村、伊藤)が参加しているので、創刊号掲載メンバー=結成式参加メンバーとは限りませんね。
ともあれ、賢治を中心に声を掛け合った気の置けない文学仲間たちが、保阪たちがいた鎌田屋に集い、『アザリア』が結成されました。
ちょうど100年前の青春のはじまりです。
次回は創刊号についてご紹介できたらなあ、と思います。
それでは、また!