「アザリアの仲間たち展」2017年7月~9月花巻にて開催予定!

「アザリアの咲いた本」について

どうも。
連休が終わり、「もう七月まで祝日が無いのか」と
憂鬱な気持ちになってる皆様こんにちは。
実行委員会のMの方です。二名いるうちのFじゃない方です。

我々も七月までノンストップです。七月になれば夏だ!岩手だ!
宮沢賢治と『アザリア』の仲間たち展」だ!!
5月の日差しと6月の雨ニモ負ケズ誠心誠意準備いたしますので
ご期待下さい。

さて私の担当は
展示全体の構成や展示パネル、企画展のデザイン作成なのですが
ブログのアイコンのイラストやフライヤーなどなどなどなど…
まぁ画像や写真などを展示する媒体にふさわしいように調整したり
作ったりする制作担当です。
もしフライヤーや展示パネルがかっこわるいな~と思ったら
それは私の仕業です。そういうことです。


アザリアの解説や協賛のお話はいつもFさんがやってくださるので
私は別の宣伝をしたいと思います。ちょっと長いぞ。

 

 

続きを読む

『アザリア』創刊号のはなし

どうも、実行委員会のFの方です。
GW、皆さまいかがお過ごしでしょうか!
私は展示パネル用の文章を書いて書いて寝て書いております!
内容が濃厚すぎるので、ライトにお伝えするにはどうしたらいいか、頭を悩ませております。
はてさてどうなることやら……。


さて、今回は『アザリア』創刊号についておはなししたいとおもいます。

 

100年前の春、『アザリア』の同人が集い、結成されました。
そこではいくつかのルールが定められました。

それは

 

「毎月一回例会を催すこと」
「機関誌を出すこと」

その機関誌『アザリア』の内容は「自由であること」(推定)でした。

 

「自由」とは、ジャンル自由! 詩も短歌も俳句も散文も戯曲もなんでもござれ!
文量自由! 書きたいものを書きたいだけ、読んでもらいたいだけ載せてよし!
そして、内容不問! たとえ思想的なものでも、信仰が反映されたものでも!

 

というのは、学内雑誌『校友会会報』は、思想的なものや政治的なもの等規制される傾向があったからなのです。
しかも当時の『校友会会報』は農業論文や報告がメインであり、文学欄は添え物扱いでした。
なので内容も文量も思うままに書く!ということができなかったようなのです。

その不自由さゆえに自由な文芸同人誌『アザリア』が誕生した、と言ってもいいかもしれませんね。


そうして『アザリア』は、1917(大正6)年7月1日に創刊されました。
(当企画展の開催が7月3日からなのも、「アザリア創刊100年のその日に企画展をやりたい!!」と駄々をこねたからですw
 生憎今年の7月1日は土曜日のため、7月3日からになりましたが…)

f:id:azalea100ten:20170506224248j:plain

(画像提供:宮沢賢治記念館)


その内容はまさに「自由」な、バラエティに富んだものでした。


これがその目次です!

 

目次
序文 初夏の思ひ出に     流るゝ子
短歌 鮫の浦にて(七首)   時雄
詩  春           流るゝ子
短歌 みふゆのひのき(一二首)    宮澤賢治
短歌 ちゃんがちゃがうまこ(八首) (宮澤賢治
詩  寮の窓にて       しのぶ
短歌 厩舎にて(二首)    し乃ぶ
短歌 春日哀愁篇(一二首)  嘉内
短歌 四首旅日記より(四首) (嘉内)
俳句 若葉の頃(一二句)   緑石
俳句 螢(六句)       潮田ゆたか
■次号予告■
定型俳句 夏の風(五句)   しのぶ
短歌 赤き花(一一首)    しのぶ
短歌 節句のあさ川岸に居て(二首) とき雄
短歌 ある日曜日のあさ(三首)  (とき雄)
短歌 午後(一首)        (とき雄)
短歌 初夏(三首)        流るゝ子
短歌 つれづれに(六首)    (流るゝ子)
短歌 腹たゝしき事(五首)   (流るゝ子)
短歌 月の夜(三首)      (流るゝ子)
短歌 六月草原篇(一〇首)  嘉内
短歌 昨夕(三首)      しのぶ
短歌 述懐(一首)     (しのぶ)
散文 「旅人のはなし」から  賢治


全部で短歌93首、俳句23句、詩2篇、散文1篇、それに序文。
参加者7名に、総ページ数48ページ!!!

 

いやあ、これだけでも彼らの意気込みがビシビシ伝わってきます……。
熱意がすごい……。

 

作品傾向は短歌がメインで、他に俳句(自由律、定型)、詩、散文がありました。
短歌、俳句、詩は主に自然や日常に着眼した内容で、
心象や空想に題材をもとめたものは賢治の散文「「旅人のはなし」から」くらいです。

 

目次を見てもらえばわかると思いますが、「流るゝ子」と「しのぶ」(し乃ぶ)の名前がやけに多いですね。
これはこのふたり……小菅健吉(流るゝ子)と鯉沼忍(しのぶ)が、短歌、詩、定型俳句と広く作品を発表しているからです。
保阪嘉内はこの時短歌のみを発表していますが、合計26首も掲載している多作者でした。
また、散文は賢治のみですが、これ一篇だけで8ページに渡る長い作品です。

 

誰もかれも、「表現をしたい」という熱い思いを爆発させ、
思うさまに青春の言の葉を紡いでいる……。

そんな創刊号ですね。


この時、創刊号序文を書いているのは小菅(流るゝ子)です。
このことから、彼が『アザリア』のリーダー格であったと考えていいでしょう。
美文家であり、『アザリア』発足前から『校友会会報』に作品投稿をしていた小菅が書いた序文「初夏の思ひ出に」を引用しましょう。

 


「消え残る雪未だまだらに彼方此方に散在する中より微風は春意を齎し、

北信は荒漠たる白銀が原を、

南信は桜花の春を告ぐる頃より中津河畔公園の紅梅一二輪、高き芳香に万輪を呼び

――統べて爛漫の桜花、尊き黄金色なせる山吹、質素な卯の花、雨にゆかしき海裳の淡紅〔?〕遠方で眺むべき桃色の花、さては名知らぬ草に至るまで咲き出でゝ、こゝにあはたゞしき杜陵の春は来りぬ、


天下を挙げて花となる北国の春、誠にあはたゞしきものなれども、

そがためにまた、華やかなり、爛漫なり、むしろ澄み渡る月光を受けし桜花など、あくどきまでに濃艶なりとや云はん、

はなやかなりし花も淡白な梨花の、しぼむ頃より、すべてにつけて行く春のあはれな情調を人の心に残す晩春に移りぬ、
青葉の影、日に増して、さても濃艶なりし影も八重桜の一二輪、散り行く葩に云ひ知れぬ淋しさを含みては新緑影濃やかなる間に無限のあはれを止むるなり、


感受的詩人が限りなき涙を流すは、げにや此の晩春より初夏への移り目、はりつめたる琴線の見えざる刺戟にも尚ほ美妙なる音を発する時にあらすや、

 

吾がアザリヤ会はかゝる詩人(敢て吾曹一派を詩人と名つけん)多忙の初夏、

乱れ易く傷みやすき心を育み、現在に対する不平を軽からしめ、自由てう心を積極的に向上せしむべく年来各自の心に、はりつめたる琴線相触れて、

こゝに第一歩を踏み出しぬ。

之より吾等の放浪する処、足跡を印すべきの旅路、前途の行程たるや誠に遠大なるものなり、遠くして而も近きに在る、その到達点や各自の、その心眼に或る何物をかを認めつゝあるにあらず哉。

 

今正に、よは真夜中にして、沈み行く弦月の影あはく、吾が行方を照し、静かに、ながむれば山影に似たる雲の峯、ふるやかに動けども、やがでは、すべてのものを打ち破るべき力強きあらしを含むものに似たり。聊か所感を述べて巻頭に記す、」

 

 

(改行は記事編集者が行いました。原文は是非『宮澤賢治全集』(校本14巻、新校本16巻)をご覧ください!) 

 


ペンネーム通り、流れるような、美しい序文です。

夢も希望も胸いっぱいにふくらませた『アザリア』の誕生。
次の「アザリアとは!」では、創刊号の一週間後のおはなしをしたいと思います。

それでは、皆さまよい日曜日を!

 

 

※重要 協賛金の口座番号について

協賛金のお振込みについてお問い合わせを受けましたので追記いたします。

 

当実行委員会の口座は「ゆうちょ銀行」の口座ですが、

他金融機関からの振り込みの場合、

協賛金のお願いに記載した番号と違う番号が要求されることがございます。

これはFの人が「記号番号」と「口座番号」を混同していたため起こりました。


 当口座名義は「ミヤザワケンジトアザリアノナカマタチテンジッコウイイ」です。

 

ゆうちょ口座間のお振り込みは

記号 14070

番号     49809711


他金融機関からのお振り込みは

 

銀行名 ゆうちょ銀行
金融機関コード 9900
店番 408
預金種目 普通(または貯蓄)
※預金種目は「普通」「貯蓄」のいずれでも振込可能です。
※通常貯蓄貯金は、給与のお受取り口座に指定できません。
店名 四〇八 店(ヨンゼロハチ店)
口座番号 4980971

 をお試しください。



 

それでも違う名義が出る場合は、一度 azalea100ten@gmail.com までお知らせください。

 

ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。

 

【近況】保阪庸夫さま・志津子さまを見送る品

どうもこんばんは、実行委員会のFの方です。

 

先日、山梨のアザリア記念会・新村ご夫妻からこのような御品が届きました。

 

f:id:azalea100ten:20170430200804j:plain

 

昨年七月にご逝去なさった保阪嘉内のご子息(次男)・保阪庸夫さんと、その前年に旅立たれた奥方様・志津子さんを見送るハンカチでした。

 

実行委員会のメンバー(※二名)は、それぞれ四年ほど前から『アザリア』について調べ始めました。

その四年の間に、Fは三度、Mは一度、保阪庸夫さんにお会いしています。

 

Fが初めて庸夫さんにお会いしたのは2013年12月。

その時にはもうご体調を崩されていらしたのに、突然やってきた変な学生のためにわざわざお時間を割いてくださいました。

ゆったりと父・嘉内について語られた、あのあたたかな声は忘れることができません。

Mと共に伺った時は、Mが描いたマンガを開き「こりゃ驚きだねえ」と微笑んでくださいました。

 

f:id:azalea100ten:20170430200824j:plain

(カメラの加工が変な具合になってしまってすみません;;)

 

このハンカチを広げた時、山梨でお会いした庸夫さんの姿がぶわっとよみがえりました。

たった三回、されど三回。

その三回がなかったら、私はここまで嘉内を、『アザリア』を、追いかけてはいなかったかもしれません。

そして今、こうして『アザリア』を残し伝えることに、懸命になってはいなかったでしょう。

 

 

父が遺した賢治からの手紙たちを受け継いだことで、悩まれたことも多かったという庸夫さん。

ですが、その苦悩の先に編纂された『宮澤賢治 友への手紙』は、彼らの友情を遺し伝える大切な役目を背負った一冊だと思います。

 

 

f:id:azalea100ten:20170430200850j:plain

 

庸夫さんと志津子さんは、とても仲のいいご夫婦だったと伺いました。

ふたりは銀河鉄道の行く先で、どこまでも、ずっと一緒に、いらっしゃるのでしょう。

 

このハンカチは、辛い涙を優しくぬぐってくれて、懸命に働いた汗を拭いてくれる、いつもそばにいてくれるような品なのだ、と思いました。

まるで庸夫さんと志津子さんご夫妻の姿のような。

そして私たちにとっての庸夫さんそのもののような。

 

f:id:azalea100ten:20170430200904j:plain

 

ぎんどろの木の下で愛犬が見送る、山梨の夜空を駆ける銀河鉄道

おふたりを思い、見送るご家族の愛にあふれた御品をいただき、本当に感謝いたします。

 

100年前の春、『アザリア』始動!

どうも、こんばんは!

実行委員会のFの方です。

準備と協賛金集めにバタバタジタバタしていたらもうGWが始まってしまいました。

ひええ…!

 

さて、今日は「アザリアとは!」第三弾です!

 

前回はどのようにメンバーが集まったのかをご紹介しました。

あれをざっくりまとめると、

賢治、保阪、小菅、河本を中心として……

 

① 学生寮の同室(賢治、保阪、伊藤彰造)(賢治、福永)

② 下宿・鎌田屋(保阪、河本、潮田、村上)

③ 学内雑誌編集委員(保阪、小菅、纐纈、鯉沼)

+同級生、同学年の友人(中島、伊藤忠次、市村)

 

というように声をかけていったということですね!

 

今回はちょうど100年前の今頃……春から初夏にかけて、どのように『アザリア』が生まれたのか、というおはなしです。

 

『アザリア』結成時、盛岡高等農林学校内にはいわゆる文芸サークルに当たるものはありませんでした。

小菅健吉さんも「当時、学内にこの他の文学グループはなかった。」と証言しています。

なので、『アザリア』の誕生はちょっとした事件だったといいます。

小菅さんは次のようにも述べています。

 

「今日と異なって学生数が少なかったため、相互に接触が多く、文学をやりそうな人も自然と分っていたので、幾人かを中心に何となく集った感じのグループである。」

 

前回見たように仲の良い者同士、個人と個人が結びつき、なんとなく集った文学青年たちの間で、

自然発生的に生まれた文芸サークル……それが『アザリア』の集いだったのでしょう。

 

その「何となく」の集いが、『アザリア』結成になった時の様子を、潮田豊さんが証言しています。

 

「大正六年の晩春 農場教室の南面、苗圃の一隅にアザリアが今を盛りと咲き誇つていた頃、材木町の北上河畔の鎌田屋の下宿で結成された事、賢治がこのグループの中核であつたという事は今でもはつきり記憶している。―略― ここはミーテイングの出来る部室もあり、格好の集り場所だつた。

最初の会合、之がアザリアの結成式になつたのであるが、誰の発起したかさだかでないが、河本や保阪、賢治等が話し合つて同好の者に知らせて催されたものと想像される。」

 

先ほどメンバー集めのルートをまとめましたが、

その「② 下宿・鎌田屋」が、『アザリア』青春の部屋だったようですね!

この時にはもう賢治は「中核」であったと言われています。

また、潮田さんは次のような証言も残しています。

 

「翌六年の春私は寮を出て友人達と北上河畔に下宿したが、その六月宮沢氏を中心として詩や短歌俳句等をたしなむ七名がこの下宿に会合して毎月一回例会を催すことや機関誌を出すこと等がきめられた。

それは丁度アゼリアの花盛りの節であったので会名も機関誌名もアゼリアと呼ぶ事になった。」

 

さあ、『アザリア』(アゼリア)が登場です!

説明不要かもしれませんが、「アザリア」は「アゼリア」「アザレア」とも呼ばれる西洋躑躅の花です。

ちょうど春から初夏にかけて咲く花で、盛岡高等農林学校の植物園は珍しい花も栽培していたため、この花が咲き誇っていたようです。

また、聖書に「アザリア」(アザルヤ)という名の殉教者のエピソード(「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」)もあったようで、それも意識していたんじゃないか、と言われています。

 

それにしても、可憐な花の名前を同人誌の題にする彼らも、なかなかかわいらしいですね♪

 

ところで、潮田さんいわく、結成式には「七名」が参加したようですが、この七名は誰なんでしょうか……。

と、疑問に思い、『アザリア』創刊号の参加者を数えてみました。

 

   第一号 1917(大正6)年7月1日発行。小菅、福永、宮沢、鯉沼、保阪、河本、潮田(人物は掲載順)

 

おお!たしかに七名!

でも、この創刊号の批評会には「十名」(上記+纐纈、市村、伊藤)が参加しているので、創刊号掲載メンバー=結成式参加メンバーとは限りませんね。

 

ともあれ、賢治を中心に声を掛け合った気の置けない文学仲間たちが、保阪たちがいた鎌田屋に集い、『アザリア』が結成されました。

ちょうど100年前の青春のはじまりです。

 

次回は創刊号についてご紹介できたらなあ、と思います。

 

それでは、また!

【近況】フライヤーが完成しました!

どうも!実行委員会のFの方です!

フライヤーが完成しました~!

じゃじゃーん! 

 

f:id:azalea100ten:20170427211340j:plain

 

落ち着いた、オシャレなフライヤーです♪

 

実は最初刷った分がほんとに、あっという間になくなり、

今回の写真は追加分なのです。

あっという間になくなった理由は…………

「配布してあげるよ!」と声をかけてくださった方々がいたからです!

本当に本当にありがとうございます(((o(*゚▽゚*)o)))

 

追加分はいっぱい刷りました!

よーし、いっぱい配って、広めるぞー!

 

 フライヤーにも書いておりますが、協賛金のご協力はまだまだ募集しております。

詳しくはこちらの記事(協賛金のご協力のお願い - アザリアの仲間たち展)をご覧ください。

どうぞよろしくお願いします!

 

展示資料収集のための旅程を立てて、あまりのハードスケジュールに口から煙を吐いている実行委員会でした!

『アザリア』メンバー集合!


どうも、こんばんは!
実行委員会のFの方です。
先日はツイッターで、前回のフライヤーの記事をたくさんRTしていただき、ありがとうございました!
本ブログは拡散大歓迎ですヾ(*´∀`*)ノ

 


さて、今日は「同人誌『アザリア』とは!」につづく、『アザリア』の紹介です。


『アザリア』が生まれた盛岡高等農林学校は、言うなれば理系の学校です。
そんな中で、どのように『アザリア』が生まれたのでしょう。


中心メンバーのひとり、小菅健吉さんは次のように言っております。


「今日と異なって学生数が少なかったため、相互に接触が多く、文学をやりそうな人も自然と分っていたので、幾人かを中心に何となく集った感じのグループである。
 『校友会会報』の編集をした小菅健吉、『校友会会報』投稿の河本義行、賢治、そして嘉内の四人を中心に文芸愛好者が集った。
 当時、学内にこの他の文学グループはなかった。―略―」(小菅健吉証言)

 

つまり、大々的にメンバー募集をしたのではなく、友人に声をかけて集まったメンバーなのですね。

 

では、どんな友人つながりだったのでしょう?

 

まず賢治と保阪嘉内。
このふたりは先輩後輩関係なのですが、なんと嘉内入学時の学生寮の部屋が同じだったのです。
そこからふたりの熱い友情が始まるのですが、これは機会に……。

この時、学生寮は一室六名。賢治と嘉内、そしてのちのアザリアメンバー・伊藤彰造も同室者でした。
彼はこの時のつながりで『アザリア』に誘われたのでしょう。

 

賢治と同級生の小菅健吉は、学内雑誌『校友会報』の文芸欄の常連投稿者でした。
そこに一学年後輩の河本義行が、自由律俳句を投稿するようになります。

 

この河本がちょっと、いや、かなりスゴイ人なんです。

中学時代から自由律雑誌『層雲』に投句していた俳人で、

俳号は「緑石」(ロクセキ)!
彼は盛岡高等農林学校内でも有名な文武両道な文学青年でした。
そんな河本が、文芸同人誌に誘われないわけがありません。

 

前回の記事を見てもらえばわかると思いますが、
アザリアメンバーの半分ほどが河本の同級生です。
田豊は河本に誘われたのでしょう、自由律俳句をたしなみ、『層雲』にも投句するようになります。
村上亀治は嘉内、潮田、河本(嘉内と入れ替わりで入居)と同じ下宿で、そこから誘われたのでしょう。

ちなみにこの下宿は「鎌田屋」という、盛岡の材木町にあった下宿で、
現在は「同人誌アザリア発祥の地」という説明木札がありました♪
盛岡に行かれる方はチェックチェックです!

 

河本の同級生の福永文三郎は、かつて賢治と同じ寮室でした。

 

「当時、私のクラスの故河本義行氏の俳句は俳人としてすでに一家をなす域に達していて、荻原井泉水流のものでした。
 時折賢治と私は河本氏の作品について彼からその解説をきく、賢治はいつも真剣にその話に聴きいっていたものでした。
 賢治はよく私に「福永さんその辺歩きませんか」といって散歩につれ出した。―略―」(福永文三郎証言)

 

賢治は福永とも仲が良かったようですね!
福永は後に朝鮮(韓国)で働くのですが、その時同じように渡鮮したのが伊藤忠次でした。学生時代から仲が良かったのかな、と思われます。

 

さて、残すは鯉沼忍、纐纈熊雄、中島慶助、市村宏ですね。

 

鯉沼忍……この人について語ろうと思うと記事がいくらあっても足りない(!)というくらい濃い方です。
彼は校内でも有名な弁論上手だったのですが、なんと小菅と同郷! 栃木の人なのです。
そのつながりでしょうか。小菅とは仲が良く、『アザリア』への誘いがあったのでしょうね。

 

そんな鯉沼は、学内雑誌『校友会報』の編集委員でもありました。
その編集仲間が纐纈熊雄です。彼は後に編集委員筆頭になったようです。
後に、この編集委員には小菅、保阪も入って来るので、アザリアメンバーだらけ。
纐纈の参加も決定しました。


纐纈の同級生の中島は、歌人として知られていたようです。
賢治・小菅・河本と、短歌作りのために登山をしたくらいなので、誘われないわけがありません。

 

市村宏は『アザリア』唯一の林学科生。
彼は後々まで仲が良かった嘉内から誘われたのでは、と考えられています。

 


さあ、アザリア同人総勢13名が集まりました!
このうち「伊藤」だけはどちらなのかわかりませんが!!
(私は、二人ともメンバーだったんじゃないかな~と思っております。)

 

彼等はどんな青春を紡いでいくのでしょうか……。

 

次回は『アザリア』創刊についてのあたりをおはなしできたら、と思います。

それでは、また~!

※当ブログ中の文章・画像の無断転載はおやめください。※