「アザリアの仲間たち展」2017年7月~9月花巻にて開催予定!

【近況】保阪庸夫さま・志津子さまを見送る品

どうもこんばんは、実行委員会のFの方です。

 

先日、山梨のアザリア記念会・新村ご夫妻からこのような御品が届きました。

 

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昨年七月にご逝去なさった保阪嘉内のご子息(次男)・保阪庸夫さんと、その前年に旅立たれた奥方様・志津子さんを見送るハンカチでした。

 

実行委員会のメンバー(※二名)は、それぞれ四年ほど前から『アザリア』について調べ始めました。

その四年の間に、Fは三度、Mは一度、保阪庸夫さんにお会いしています。

 

Fが初めて庸夫さんにお会いしたのは2013年12月。

その時にはもうご体調を崩されていらしたのに、突然やってきた変な学生のためにわざわざお時間を割いてくださいました。

ゆったりと父・嘉内について語られた、あのあたたかな声は忘れることができません。

Mと共に伺った時は、Mが描いたマンガを開き「こりゃ驚きだねえ」と微笑んでくださいました。

 

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(カメラの加工が変な具合になってしまってすみません;;)

 

このハンカチを広げた時、山梨でお会いした庸夫さんの姿がぶわっとよみがえりました。

たった三回、されど三回。

その三回がなかったら、私はここまで嘉内を、『アザリア』を、追いかけてはいなかったかもしれません。

そして今、こうして『アザリア』を残し伝えることに、懸命になってはいなかったでしょう。

 

 

父が遺した賢治からの手紙たちを受け継いだことで、悩まれたことも多かったという庸夫さん。

ですが、その苦悩の先に編纂された『宮澤賢治 友への手紙』は、彼らの友情を遺し伝える大切な役目を背負った一冊だと思います。

 

 

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庸夫さんと志津子さんは、とても仲のいいご夫婦だったと伺いました。

ふたりは銀河鉄道の行く先で、どこまでも、ずっと一緒に、いらっしゃるのでしょう。

 

このハンカチは、辛い涙を優しくぬぐってくれて、懸命に働いた汗を拭いてくれる、いつもそばにいてくれるような品なのだ、と思いました。

まるで庸夫さんと志津子さんご夫妻の姿のような。

そして私たちにとっての庸夫さんそのもののような。

 

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ぎんどろの木の下で愛犬が見送る、山梨の夜空を駆ける銀河鉄道

おふたりを思い、見送るご家族の愛にあふれた御品をいただき、本当に感謝いたします。

 

100年前の春、『アザリア』始動!

どうも、こんばんは!

実行委員会のFの方です。

準備と協賛金集めにバタバタジタバタしていたらもうGWが始まってしまいました。

ひええ…!

 

さて、今日は「アザリアとは!」第三弾です!

 

前回はどのようにメンバーが集まったのかをご紹介しました。

あれをざっくりまとめると、

賢治、保阪、小菅、河本を中心として……

 

① 学生寮の同室(賢治、保阪、伊藤彰造)(賢治、福永)

② 下宿・鎌田屋(保阪、河本、潮田、村上)

③ 学内雑誌編集委員(保阪、小菅、纐纈、鯉沼)

+同級生、同学年の友人(中島、伊藤忠次、市村)

 

というように声をかけていったということですね!

 

今回はちょうど100年前の今頃……春から初夏にかけて、どのように『アザリア』が生まれたのか、というおはなしです。

 

『アザリア』結成時、盛岡高等農林学校内にはいわゆる文芸サークルに当たるものはありませんでした。

小菅健吉さんも「当時、学内にこの他の文学グループはなかった。」と証言しています。

なので、『アザリア』の誕生はちょっとした事件だったといいます。

小菅さんは次のようにも述べています。

 

「今日と異なって学生数が少なかったため、相互に接触が多く、文学をやりそうな人も自然と分っていたので、幾人かを中心に何となく集った感じのグループである。」

 

前回見たように仲の良い者同士、個人と個人が結びつき、なんとなく集った文学青年たちの間で、

自然発生的に生まれた文芸サークル……それが『アザリア』の集いだったのでしょう。

 

その「何となく」の集いが、『アザリア』結成になった時の様子を、潮田豊さんが証言しています。

 

「大正六年の晩春 農場教室の南面、苗圃の一隅にアザリアが今を盛りと咲き誇つていた頃、材木町の北上河畔の鎌田屋の下宿で結成された事、賢治がこのグループの中核であつたという事は今でもはつきり記憶している。―略― ここはミーテイングの出来る部室もあり、格好の集り場所だつた。

最初の会合、之がアザリアの結成式になつたのであるが、誰の発起したかさだかでないが、河本や保阪、賢治等が話し合つて同好の者に知らせて催されたものと想像される。」

 

先ほどメンバー集めのルートをまとめましたが、

その「② 下宿・鎌田屋」が、『アザリア』青春の部屋だったようですね!

この時にはもう賢治は「中核」であったと言われています。

また、潮田さんは次のような証言も残しています。

 

「翌六年の春私は寮を出て友人達と北上河畔に下宿したが、その六月宮沢氏を中心として詩や短歌俳句等をたしなむ七名がこの下宿に会合して毎月一回例会を催すことや機関誌を出すこと等がきめられた。

それは丁度アゼリアの花盛りの節であったので会名も機関誌名もアゼリアと呼ぶ事になった。」

 

さあ、『アザリア』(アゼリア)が登場です!

説明不要かもしれませんが、「アザリア」は「アゼリア」「アザレア」とも呼ばれる西洋躑躅の花です。

ちょうど春から初夏にかけて咲く花で、盛岡高等農林学校の植物園は珍しい花も栽培していたため、この花が咲き誇っていたようです。

また、聖書に「アザリア」(アザルヤ)という名の殉教者のエピソード(「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」)もあったようで、それも意識していたんじゃないか、と言われています。

 

それにしても、可憐な花の名前を同人誌の題にする彼らも、なかなかかわいらしいですね♪

 

ところで、潮田さんいわく、結成式には「七名」が参加したようですが、この七名は誰なんでしょうか……。

と、疑問に思い、『アザリア』創刊号の参加者を数えてみました。

 

   第一号 1917(大正6)年7月1日発行。小菅、福永、宮沢、鯉沼、保阪、河本、潮田(人物は掲載順)

 

おお!たしかに七名!

でも、この創刊号の批評会には「十名」(上記+纐纈、市村、伊藤)が参加しているので、創刊号掲載メンバー=結成式参加メンバーとは限りませんね。

 

ともあれ、賢治を中心に声を掛け合った気の置けない文学仲間たちが、保阪たちがいた鎌田屋に集い、『アザリア』が結成されました。

ちょうど100年前の青春のはじまりです。

 

次回は創刊号についてご紹介できたらなあ、と思います。

 

それでは、また!

【近況】フライヤーが完成しました!

どうも!実行委員会のFの方です!

フライヤーが完成しました~!

じゃじゃーん! 

 

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落ち着いた、オシャレなフライヤーです♪

 

実は最初刷った分がほんとに、あっという間になくなり、

今回の写真は追加分なのです。

あっという間になくなった理由は…………

「配布してあげるよ!」と声をかけてくださった方々がいたからです!

本当に本当にありがとうございます(((o(*゚▽゚*)o)))

 

追加分はいっぱい刷りました!

よーし、いっぱい配って、広めるぞー!

 

 フライヤーにも書いておりますが、協賛金のご協力はまだまだ募集しております。

詳しくはこちらの記事(協賛金のご協力のお願い - アザリアの仲間たち展)をご覧ください。

どうぞよろしくお願いします!

 

展示資料収集のための旅程を立てて、あまりのハードスケジュールに口から煙を吐いている実行委員会でした!

『アザリア』メンバー集合!


どうも、こんばんは!
実行委員会のFの方です。
先日はツイッターで、前回のフライヤーの記事をたくさんRTしていただき、ありがとうございました!
本ブログは拡散大歓迎ですヾ(*´∀`*)ノ

 


さて、今日は「同人誌『アザリア』とは!」につづく、『アザリア』の紹介です。


『アザリア』が生まれた盛岡高等農林学校は、言うなれば理系の学校です。
そんな中で、どのように『アザリア』が生まれたのでしょう。


中心メンバーのひとり、小菅健吉さんは次のように言っております。


「今日と異なって学生数が少なかったため、相互に接触が多く、文学をやりそうな人も自然と分っていたので、幾人かを中心に何となく集った感じのグループである。
 『校友会会報』の編集をした小菅健吉、『校友会会報』投稿の河本義行、賢治、そして嘉内の四人を中心に文芸愛好者が集った。
 当時、学内にこの他の文学グループはなかった。―略―」(小菅健吉証言)

 

つまり、大々的にメンバー募集をしたのではなく、友人に声をかけて集まったメンバーなのですね。

 

では、どんな友人つながりだったのでしょう?

 

まず賢治と保阪嘉内。
このふたりは先輩後輩関係なのですが、なんと嘉内入学時の学生寮の部屋が同じだったのです。
そこからふたりの熱い友情が始まるのですが、これは機会に……。

この時、学生寮は一室六名。賢治と嘉内、そしてのちのアザリアメンバー・伊藤彰造も同室者でした。
彼はこの時のつながりで『アザリア』に誘われたのでしょう。

 

賢治と同級生の小菅健吉は、学内雑誌『校友会報』の文芸欄の常連投稿者でした。
そこに一学年後輩の河本義行が、自由律俳句を投稿するようになります。

 

この河本がちょっと、いや、かなりスゴイ人なんです。

中学時代から自由律雑誌『層雲』に投句していた俳人で、

俳号は「緑石」(ロクセキ)!
彼は盛岡高等農林学校内でも有名な文武両道な文学青年でした。
そんな河本が、文芸同人誌に誘われないわけがありません。

 

前回の記事を見てもらえばわかると思いますが、
アザリアメンバーの半分ほどが河本の同級生です。
田豊は河本に誘われたのでしょう、自由律俳句をたしなみ、『層雲』にも投句するようになります。
村上亀治は嘉内、潮田、河本(嘉内と入れ替わりで入居)と同じ下宿で、そこから誘われたのでしょう。

ちなみにこの下宿は「鎌田屋」という、盛岡の材木町にあった下宿で、
現在は「同人誌アザリア発祥の地」という説明木札がありました♪
盛岡に行かれる方はチェックチェックです!

 

河本の同級生の福永文三郎は、かつて賢治と同じ寮室でした。

 

「当時、私のクラスの故河本義行氏の俳句は俳人としてすでに一家をなす域に達していて、荻原井泉水流のものでした。
 時折賢治と私は河本氏の作品について彼からその解説をきく、賢治はいつも真剣にその話に聴きいっていたものでした。
 賢治はよく私に「福永さんその辺歩きませんか」といって散歩につれ出した。―略―」(福永文三郎証言)

 

賢治は福永とも仲が良かったようですね!
福永は後に朝鮮(韓国)で働くのですが、その時同じように渡鮮したのが伊藤忠次でした。学生時代から仲が良かったのかな、と思われます。

 

さて、残すは鯉沼忍、纐纈熊雄、中島慶助、市村宏ですね。

 

鯉沼忍……この人について語ろうと思うと記事がいくらあっても足りない(!)というくらい濃い方です。
彼は校内でも有名な弁論上手だったのですが、なんと小菅と同郷! 栃木の人なのです。
そのつながりでしょうか。小菅とは仲が良く、『アザリア』への誘いがあったのでしょうね。

 

そんな鯉沼は、学内雑誌『校友会報』の編集委員でもありました。
その編集仲間が纐纈熊雄です。彼は後に編集委員筆頭になったようです。
後に、この編集委員には小菅、保阪も入って来るので、アザリアメンバーだらけ。
纐纈の参加も決定しました。


纐纈の同級生の中島は、歌人として知られていたようです。
賢治・小菅・河本と、短歌作りのために登山をしたくらいなので、誘われないわけがありません。

 

市村宏は『アザリア』唯一の林学科生。
彼は後々まで仲が良かった嘉内から誘われたのでは、と考えられています。

 


さあ、アザリア同人総勢13名が集まりました!
このうち「伊藤」だけはどちらなのかわかりませんが!!
(私は、二人ともメンバーだったんじゃないかな~と思っております。)

 

彼等はどんな青春を紡いでいくのでしょうか……。

 

次回は『アザリア』創刊についてのあたりをおはなしできたら、と思います。

それでは、また~!

オリジナルフライヤーを作りました!

こんばんは、実行委員会のFの方です!

日々ここで「アザリア展やります!」「協賛金のご協力を!」「アザリアってこういうものですよ!!」とやいのやいのと言っておりますが、

なかなか広めることができず……皆さまに本企画展を知っていただくことの難しさを痛感しております……。

 

我々には何が足りないか?

 実行委員会(※二名)で話し合い、気付きました。

 

「フライヤー(チラシ)だ!!」

 

ということで、実行委員会のMの方が頑張ってくれました。

本記事の下の部分に画像を張り付けております。

うふふ、かっこいいでしょう(*´艸`*) 

メンバーの名前の並び順のこだわりがわかる方は私たちと夜通しアザリアトークいたしましょう♪

 

正式なチラシ、ポスターは、また主催のイーハトーブセンターさまが作ってくださる予定ですので、

今回は「協賛金のご協力のお願い」を兼ねたオリジナルフライヤーとなっております。

 

「配布してあげるよ!」という方いらっしゃいましたら、azalea100ten@gmail.com までご一報ください。お送りいたします。

プリントアウトしてくださる方は下記リンクからDLをお願いいたします。

Dropbox - アザリア展協賛金募集フライヤー.pdf

(※Dropboxの登録は不要です。登録のダイアログが出た場合、無視して大丈夫です)

 

準備も協賛金集めも鋭意努力中です。

応援してやってくださいませ!

それでは~!

 

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協賛金のお願い「学生賛同者」についての質問を受けました

協賛金について質問を受けたのでお答えします!

 

「学生賛同者 1口1000円 とありますが、こちらは学生ではない一般の者でもよいのですか?」

 

はい、もちろんです!
1口5000円の賛同者とは違う点としては、御礼の部分です。
学生賛同者は3口以上の協賛で、パンフレット1部を差し上げます。
また、通常賛同者には粗品等もお渡し出来たらと考えておりますが、学生賛同者の方への粗品は今の所考えを保留しております。

また、パンフレットの名前を載せる際、協賛金額で差異をつけるということはありません。
そちらもご了承くださいませ。

どうかご理解いただき、応援していただけたら、と思います。
よろしくお願いいたします。

 

協賛金についてはこちらから 

協賛金のご協力のお願い - アザリアの仲間たち展

同人誌『アザリア』とは!

どうも、こんばんは~
実行委員会のFの方です!
本ブログでは近況報告やお願いだけじゃなく、
「そもそも『アザリア』ってなんだ???」「宮沢賢治とどういうかかわりがあるの??」という話も書いていこうかと思っています。

やっぱり『アザリア』って聞いてピンとくる方のほうが少ないですからね……(^▽^;)

 

ということで!
まずは『アザリア』について簡単にご説明いたします!


『アザリア』とはずばり、「雨ニモマケズ」や「銀河鉄道の夜」で有名な宮沢賢治が、学生時代に参加していた文芸同人誌のことです。

賢治が通っていた盛岡高等農林学校は、当時唯一の官立高等農林学校でした。
全国からエリート(地主の息子率めっちゃ高い!)が集まるこの学校には、
どうやら少数ではありますが、文学好きな青年たちも集まっていたようです。

賢治と、その後輩であり親友の保阪嘉内(ホサカカナイ)、そして賢治の同級生・小菅健吉(コスゲケンキチ)、嘉内の同級生・河本義行(カワモトヨシユキ)の四人が中心になって、同人誌の仲間が集まりました。
それがこの面々!

 

『アザリア』同人 ※学科学年順
農学科一部三年  纐纈熊雄(コウケツクマオ)、中島慶助(ナカジマケイスケ)
農学科二部三年  宮沢賢治、小菅健吉
獣医学科三年   鯉沼忍(コイヌマシノブ)
農学科一部二年  河本義行、福永文三郎(フクナガブンザブロウ)、潮田豊(ウシオダユタカ)、村上亀治(ムラカミカメジ)、伊藤忠次(イトウチュウジ)
農学科二部二年  保阪嘉内、伊藤彰造(イトウショウゾウ)
林学科一年    市村宏(イチムラヒロシ)

 

総勢で12(13)人の仲間たちです!

なんで、(13)人かと言うと、『アザリア』に「伊藤」という同人がいたのですが……
お気づきの方もいるかもしれませんが、「伊藤」苗字の人が二人いるんです。
伊藤忠次」と「伊藤彰造」。
どちらが『アザリア』のメンバーなのかハッキリしないのです……。
この件については、またいずれ。

 

このとにかく集まったこの12(13)人。
短歌、俳句、詩、散文、漢詩、なんでもOK!という自由な同人誌『アザリア』は
1917(大正6)7月1日から1918(大正7)年6月までの約一年の間に全6号が発行されました。

 

……ん? 1917年??

 

そうです! 今年、2017年は『アザリア』創刊からちょうど100年目なのです!

だからこそ、是非今年に『アザリア』展を!!と意気込んでおります。


100年前の文芸青年たちの作品やその友情、そしてその後の人生の交錯。
そのような話もお伝えしていきたいなあ、と思います。

 

とりあえず本日は『アザリア』の簡単な説明でした。

ではでは、また~♪

 

※協賛金のご協力はまだまだ募集しております。

 詳しくはこちらの記事(協賛金のご協力のお願い - アザリアの仲間たち展)を

 ご覧ください。よろしくお願いします!※

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